大脳皮質基底核変性症|介護歴10年超え/施設選び事例(母の場合)
今回は施設選びのポイントについて記録します。
大脳皮質基底核変性の進行具合に応じてどう施設を選んできたのか、母の事例を紹介します。
今回の記事は、
「施設の選び方についてどのようにされたのかサイトにて紹介してほしい」
というお問い合わせをいただいたことがきっかけです。
大脳皮質基底核変性症と診断されるまでの4年程度、
母は自宅で一人で暮らしていました。
その4年間に母は父の介護を背負い、
その父が亡くなり、
自分の苦しんできた症状が「大脳皮質基底核変性症」という稀な病気だとわかり、
治る見込みもなく、
希望が持てなくなってしまったとき、
母は自ら施設入所という選択肢を初めて持ちました。
右手がひどく痛み、料理をすること、食事をすることに多くの時間を費やさなければならなくなり、
人に頼らなければならなく苦しくなったことも、
大きな原因のようでしたが、
父が亡くなり、父のために何かをすることで、
自分の自立した生活を保ってきたというタガがはずれてしまったことが
自分の人生を変えなければならないと考えたきっかけだそうです。
それでも父と暮らしてきた家、子どもを育てた家には愛着や固執があり、
簡単に決断したのではなく、
ケアマネさんのアドバイスを受け入れ、
そして私が手伝いできるキャパなどを考えて、
泣く泣くだったということです。
すべて後日談です。
私は実家じまいをしたときに、
母が書いていた日記を偶然にも見つけました。
母が利き手ではない左手で必死に書いていた母の本当の気持ちを知ることとなりました。
なので、母が自分のことだけではなく、
迷惑を掛けるであろう娘の私のことも考え、
悩み苦しんだ決断だったことを私は理解したのです。
母の意思を尊重し、
独り暮らしから施設入所へと生活の拠点を変えたのは、
母が「大脳皮質基底核変性症」と診断され、半年程度経過した頃です。
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1.最初の施設(住宅型有料老人ホーム)
母が当初デイサービスに通っていたところで
友人も入所しているこの施設へ入所しました。
母も私もこの先に待ち受ける事態には
まったく気づくことなく(まったく予想すらできず)
この施設で、母の「ここで最期まで暮らしたい」という気持ちに添い、
入所を決めました。
「母が暮らすところなので母の望むところを」
とその施設に入所することに私は賛成し
母は自分で施設の申込をしました。
この施設が住宅型有料老人ホームなので
「住まい」として安心に暮らせること、
日常生活を送るうえで支障のある人に
介護職員が部屋へ訪問してくれるというサービスや
24時間介護スタッフ常駐の見守りのあるサービスがあるなら安心だ
とその時は感じていました。
母は大脳皮質基底核変性症の症状がある程度出てきても
まだ自分でトイレに行くことができ
食事は施設にいる友人と会話をしながら食べることができ
スタッフさんたちとコミュニケーションを取り要望を伝え
自分なりに工夫しながら暮らすことができていました。
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少しずつ進行していく大脳皮質基底核変性症なので
途中から、外部の「理学療法士」「作業療法士」「言語聴覚士」などのリハビリサービスを、
身体的な機能を維持することを目的に、受け始めました。
月1回の通院で主治医の先生に診てもらうほか
便秘など日常に起きた不調はその施設の往診医に診てもらっていました。
その施設で暮らすようになって2年半
(「大脳皮質基底変性症」と診断されて3年)を過ぎた頃に
転倒が多くなりました。
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母のもとを訪ねると、
顔がパンパンに腫れあがり、
ベッドでアイスノンをあてて寝ている場面に出合うことが多くなりました。
今の母の鼻が曲がっているのは
この時に繰り返していた転倒が原因だと思います。
当時は往診医に診てもらうこともほとんどなく、
アイスノンをあててベッドに横たわっていました。
その頃、介護スタッフさんたちに
「じっとしていないからこうなるんだ」
「変な病気になったもんだ」
など言われていたようです。
ある程度元気な老人の生活を見守るという施設なので、
難病の知識はなく、知ろうとする必要もないようでした。
あるとき、私は施設の会議に呼ばれ
母のトラブルについての報告と「この施設では対応できない」旨を伝えられました。
スタッフさんたちは長くいる母に対して
一生懸命やってくれていたのも事実ですが、
大脳皮質基底核変性症の症状が進んで、
施設とマッチしなくなったんだと悟りました。
ちょうどその頃は
右手だけではなく右足にも症状が強く出てきていたのですが、
母が「トイレに行こう」と思う時には
「病態失認」で瞬間的に立ちあがってしまっていたために、
「足も使いにくいからスタッフさんを呼ぼう」
なんて母にとって予防的に考えること自体が大脳皮質基底核変性症によって難しくなっていたためです。
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こういう諸々から、
次にお世話になるところは「大脳皮質基底核変性症」のことを知っている施設でありたいと強く思いました。
まだ母が自分の要望を伝えることができ、
母が暮らしていくために、
母の気持ちや母の許可なく、
施設を移動することはできないので、
母と相談を密にしながら施設選びをすることにしました。
ケアマネさんに次の施設を探してもらったのですが、
「難病を受け入れてくれる施設はほとんどなく、唯一1施設だけが、大脳皮質基底核変性症の患者さんを看た経験のある看護師さんがいて受け入れてくれるかもしれない」
と言われ、私たちはそれに従う形で施設の移動を検討し始めました。
2.次の施設(住宅型有料老人ホーム)
ケアマネさんが紹介してくれた住宅型有料老人ホームという同じ形態の有料老人ホームへ移動することになりました。
母と見学に行き、
施設管理者との面談などを経て、
そこにいる看護師さんも
「お母さんを最期まで責任を持って看ます。安心してください。」
と言ってくれたことが決め手になりました。
そのときは
母と共にうれしくて涙が出て安堵したことを覚えています。
母が家から施設に入るとき
最期を迎える覚悟で決断したので
施設を変わることにかなりの抵抗があり
不安でいっぱいの様子でした。
それでも
自分が大脳皮質基底核変性症という病気に罹ってしまった
ということを理解し、どこかの施設へ移動するしか選択肢がない
というのが母の気持ちでした。
だからこそ
移動する先の施設管理者や看護師さんの言葉がとてもうれしかったのです。
おそらくまだ自分で「いろいろとできる、努力すればできる」と思っていたはずで
受け入れてくれる施設にできるだけ迷惑を掛けないようにと
自分のことを自分でやろうとしていました。
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この施設は
以前の施設とサービス展開はほとんど変わりがありませんでした。
往診医に精神科の先生がいるというところを除いて。
入所3日目のことです。
母の頻尿が原因で
トイレに行く回数が多すぎる
精神的に楽になる薬を服用するべき
服用をしないなら施設退所を考えるしかない
と施設管理者とケアマネから詰め寄られました。
理由は
「これほどまでにひどい病気だと私たちは知らなかったので施設退所を考えて」
とのことでした。
「これほどまでにひどい病気」とは、
頻尿、それも夜間頻尿で、
スタッフさんの手が他の入所者よりも
必要となるとのことでした。
そして
母のベッドに施設側が柵をしたので母がトイレに行けなくなった
薬を追加されたようで、ベッドに寝ているだけの母になった(話しかけても反応なし)
膀胱炎になりバルーンカテーテルを付けられた
さらに
施設管理者とケアマネの二人が作った1時間単位に訪問介護や訪問看護サービスが入ったスケジュールが
守られなくなり、ただベッドで眠っている母となりました。
ほんの数日間で
母がADL(日常生活能力)を失ってしまって、
私は施設移動したことを悔やみ夜も眠れなくなり泣いて過ごす日となりました。
これを救ってくれたのが、
月に1度通院している主治医です。
母の異常を通院時に気づき、
施設へ連絡してくれたので、
施設で出された薬の投与が中止されたからです。
「お母さんは2、3カ月で薬の作用が切れてきて前のような状態に戻ると思う」
と主治医から教えてもらったので
その日を待つことにしました。
(実際には2か月半くらいで、母が覚醒し会話ができるようになりました。)
そこで私は、薬を強要するケアマネを頼らず
他の施設を探すことにしました。
母に必要なのは
「介護 < 看護」であり、
医療(看護)に特化した施設(例えばナーシングホーム)の見学をひとりで行きました。
ところが、
どこも満床で。
大脳皮質基底核変性症だけではなく、
パーキンソン病や進行性核上性麻痺、スモン病、シャイ・ドレーガー症候群、ライムゾーン病、末期がん、オリーブ嬌小脳萎縮症などの
難病の方が多くいることに気づきました。
3.今の施設(医療対応型有料老人ホーム)
施設回りをしていると、
私一人では難しいことがわかってきて
断念せざるを得ない状況になってきました。
そんなときに
医療に特化した施設が数か月後に新設されると聞き、
見学に行き、
面談をして、
そこに入所することを
私が決めました。
母にはこれからは医療が必要となる旨を話し、
納得してもらい施設を移動することができました。
母の一番の要望は「面会の制限が少ない施設が良い」ということでした。
その当時はコロナ感染が蔓延していたので、母にとって面会できないことは何より辛かったのだと思います。
「医療対応型有料老人ホーム」
難病対応施設
24時間365日医療対応
夜間看護師3名配置
主治医の継続可能
外部サービス可
家族の夜間付き添い可
面会制限なし
家具家電付き
洗濯おむつ無料
難病対応ということは
施設に理解があることが前提なので、
母が「普通の人」として受け入れてもらえると思いました。
「新設」というのは、
スタッフさん同士も初めましての状況、
私とも母とも初めましてならば、
母をそのまま理解してもらいやすいと考えました。
看護師さんは職業柄家族に寄り添うことが日常なので、
難病に対する不安など相談にのってもらえます。
そして何より
私が母に望んでいることを共有して、
一緒にそれに向けて行動してくれることが
現在とても有難いのです。
現在の母の状況は
車いすに座ることができる
散歩に行って段差など不安定な道でも支えることなく座っていることができる
5時間くらいの通院待ち時間でも座って待っていることができる
胃ろうはしているが、お楽しみ食を楽しむことができる
主治医や病院付き添いの介護士さんなど施設以外の人と簡単な会話ができる
など。
大脳皮質基底核変性症が進行した中で、
これだけのことができる(でき続けている)ことは、
毎日の施設側の協力があってのこと。
「母の持っている機能を、維持もしくはできるだけ緩やかな下降に努める」
母ができる限り穏やかに、生きていけるように。
4.まとめ
このサイトでは大脳皮質基底核変性症を患う母の施設選びを記録しました。
最初の施設(住宅型有料老人ホーム)に3年間
次の施設(住宅型有料老人ホーム)に3か月。
今の施設(医療対応型有料老人ホーム)は現在1年半、お世話になっています。
母の場合の1例ですが
難病の施設選びは、
難病の進行具合によって、
必要なサービスが変わっていくので
それに応じていくと良いと感じます。
同じ施設でお世話になれれば、
もしかしたら長い付き合いで
進行して状態が変わったとしても
対応してもらえるかもしれません。
母の場合は、
最初は楽しく過ごすことができて
住宅型有料老人ホームの形態にマッチしていたと思いますが、
「大脳皮質基底核変性症」という難病に対して
施設側の拒否感があったため、
病気が進行すると、
いとも簡単に施設との関係性も壊れてしまうので、
苦しい思いを経験することとなりました。
病状に合わせて
必要なサービスがあるところへ移動することは必要であっても
施設を変わって負担になるのは、
本人であり、それによって病状が進行するかもしれないので、
移動すべきかどうかを適切に見極めること、
タイミングを計ること
など慎重にならなければなりません。
外から見ると施設が良く見えたり、
面談で良いことを言われたり・・・
でも実際のところ施設に入所して中の様子が見えないとわからないことは多いです。
それに同じグループ施設であっても
そこそこの雰囲気が違うと聞くので、
つまるところスタッフさんたちの心根次第なのかもしれません。
そのため家族は
施設スタッフさん達と
上手に関係を築いていくことも
必要かなと思います。
また、施設入所者の意欲や残された身体的能力をできる限り引きだしていこう
という施設の方針やスタッフさんたちの考えが
あるかどうかを確かめるのは重要なことだと感じます。
介護が必要になった人が
穏やかに暮らしていくためには、
ベッドに寝かせておいてスタッフさんの手を煩わせないことよりも、
ベッドから移動できる(自分の意思でできなかったとしても)ことや、
部屋の外へ出て人がいる空間で過ごすことなども
必要だと感じます。
1対1の関係ではなく
1対多の関係を続けていくことです。
ここで改めて振り返って考えてみると、
お世話になる施設を進行具合によって選び
移動していくのも重要なことですが、
施設以外の声が聞こえてくる立ち位置を確保することが、
家族としてはとても重要なのかもしれません。
私たちの場合は、
母の主治医や
外部サービスの療法士さんや介護士さんなど
施設とは別の視点を持つ人たちとのコミュニケーションの重要性を感じています。
母の状態にあった適切なサービスを受けるために、
母の様子を見て、
日々試行錯誤しているところです。
母の記憶が私と過ごした楽しいことで、
上書きされて
どこを思い出しても、
辛いと感じないようにしたい
と思っています。
施設スタッフさんたちは
「母に私との楽しい記憶を残す」ことに賛同してくれて、
母と私との時間や
母を散歩に連れ出す私を
あたたかく見守ってくれていることを感じます。
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