大脳皮質基底核変性症の母|誤嚥性肺炎入院、そして退院するはずだった日に迎えた最期




大脳皮質基底核変性症の母|誤嚥性肺炎入院、そして退院するはずだった日に迎えた最期


その日は退院する日でした。

誤嚥性肺炎で入院して1週間経過した頃に、

  • 抗生剤の投与をしなくても感染の値も良くなった

  • 肺の白っぽいのもよくなってきた

  • 胃ろうも再開できている

と呼吸器の医師より「退院に向けて準備をしていきます」と連絡がありました。

「施設に戻って、少し気温が落ち着いたら母と散歩に行こう」
「母と秋を見つけに公園に一緒に行こう」
と想像する私に、
医師は、「ただこれからは誤嚥を繰り返すと思われます」と先行き不安になることを言いました。

「それでも現在は退院するのに問題ない検査の値なので、帰ってからお母さんとの時間の大事にしてください」
という医師のその言葉に、
私の中に湧き出てくるこの先の不安を私なりに覆い隠し、退院へ向けての準備を始めることにしました。

そのときに医師に確認したのは、「誤嚥性肺炎を繰り返す」ことへの対処方法について。

  • 自分の唾液でも誤嚥しているので吸引は欠かせなる

  • それをしながら状態を確認していく

  • 発熱の症状が出れば抗生剤で様子を見るということになる

という話でした。

※【参考】前回の記事:大脳皮質基底核変性症の誤嚥性肺炎|母の介護でわかった「むせない誤嚥」と嚥下の変化【介護記録】


そうして迎えた退院の日。

母はその日、今まで力がはいっていた手が緩んでいました。
それに気づいた看護師さんから連絡があり、予定より数時間早めに病室へ入るように言われました。

実際母と手を繋ぐと、今までぐっと力が入っていたその手は、病気なんかなかったかのように動かすことができました。
そうした中、大きな変化が現れてきたのは、酸素濃度(血中酸素飽和度)の値が、80%台になる時間が増えてきたことでした。
酸素マスクをしていても、です。

これでいったん退院を見送ることになりました。

そしてその後、数時間をかけて、だんだん呼吸数が減っていきました。

そして

母は私と手を繋ぎながら、私のおしゃべりに付き合い、そして眠るように穏やかに旅立っていきました。


神経難病「大脳皮質基底核変性症(CBD)」
直接の死因「誤嚥性肺炎」


呼吸器の医師は「こういう最期に立ち会えるのは、実は本当に少ないことなのです」と言いました。

大脳皮質基底核変性症でお世話になっている主治医も、母に会いに来てくれました。

「お母さんは幸せだったと思うよ」

母の姿をみて、母のことを言葉にしてくれたのは、主治医が母が言葉を失ってしまったことを一緒に見てきたからだと今ならわかります。

こうして、本当にあっけなく、あれよあれよという間に
難病【大脳皮質基底核変性症】を患う母の介護は終わりました。

確定診断は2019年。
2015年頃から他人の手兆候という大脳皮質基底核変性症に見られる症状が出始めました。
この病気の闘病は実に11年。


思い返せば、こうすればもっと良かったのかもと母を見送ってからも思うものの
いつの頃からか私たちが目指し始めた「母なりのピンピンコロリ」。

いま思えば、それを実現できたのではないかと思っています。


なぜなら、亡くなる半月前までは、
散歩に出かけ、
私が話しかければ私を見て「あー」と答え、
施設スタッフさんが挨拶をすれば「あー」と返し、
週1回のお楽しみで味を楽しんで、
発熱もなく穏やかに過ごしていたのです。

母が大好きな巨峰を今年も味わっていた母。

言語聴覚士さんと「これはおいしいっていうことだね」と思わず言ってしまうくらい、ゆっくり舌で果汁を味わっていたのですから。

11年もの間、母と二人三脚で「難病:大脳皮質基底核変性症」と向き合ってきました。

何でも相談し、話し、試して…

母が逝ってしまって
一緒に過ごす生活がなくなって、やっぱり淋しいな。

母との約束なので、ここに記事を置きました。
どうか、母と同じ病気で苦しんでいる方、介護をしていらっしゃる方のお役に立てる情報となりますように…。




他の記事はこちらから…介護記事一覧

ページトップへ戻る