大脳皮質基底核変性症|コミュニケーション術




大脳皮質基底核変性症|コミュニケーション術

このページでは、大脳皮質基底核変性症の母とのコミュニケーション術について記録します。

前々回の記事「診断から5年のリアル(コミュニケーション編)」


①はっきりと言葉として聞き取れる場合
②はっきりと聞こえないけれどこちらが聞き取ろうとして想像することで言葉を聞き取れる場合
③全く言葉として聞こえない場合


と分けて母の現在の様子を割合で記録しました。

詳しくはこちら「診断から5年のリアル(コミュニケーション編)(内部リンク)


同じ大脳皮質基底核変性症の方を介護されている方から


ほとんど③だけどそれでも通じることもあるので、
そばに居られる時は、居てあげて下さいね


というやさしい内容のご連絡が届きました。

そこで、言葉だけではないコミュニケーションを
私なりに探してみました。





1.歌



昨冬に散歩に出たときに
赤ともピンクとも見える花が満開でした。

おそらくそれは「つばき」だったと思いますが
「さざんか」だと思い(実際見分けは難しいそうです)
私がふと

「さざんか さざんか さいたみち♪」
と口ずさみました。

すると、それに続いて母が

「たきびだ たきびだ おちばたき♪」
と歌いだしました。

車道を通る車の音にかき消されないほどの
大きな声で。

近くにいた人が振り返るくらいの声で。

母にこんなに大きな声を出す力が残っていたんだ
と思うとともに
音程や記憶も確かなものだと気づいたことを
思い出しました。



そこで、音楽を聴くことをきっかけに
母が何か行動できるといいなと思い
ラジオをつけるようにしてみました。

テレビはラジオとは違って聴く専門なので
間合いや会話が聴きやすく
今の母にはピッタリ。

それに母は昔からよくラジオを聴いていたことも思い出しました。

それ以降、スタッフさんから
「お母さんはラジオを聴いているよ」
「ラジオを聴いて穏やかに過ごしている」
と言われることが多くなりました。

あるとき、母を訪ねると
鼻唄を歌っているところでした。

「お母さん、上手だね、何の歌を歌っているの?」
と聞くと
私をちらっと見ました。

「楽しいのね」と言うと
また鼻唄を歌い始めました。
(何の曲かはわかりません・・・)

もしかするとラジオから自分の知っている曲が流れて、
つられて歌っていたのかもしれません。

言語聴覚士さんとの時間には、
「歌う」リハビリがあります。

その際、言語聴覚士さんの歌に合わせて
母は楽しそうに歌っていたそうです。

2.言葉だけではない



「コミュニケーション」と聞くと、
言葉のやりとりだけだと思ってしまっていましたが、
現在の母には母なりの言葉で周りの人とのやり取りがあると感じています。

私の話しかけに対して返事はないけど、
鼻唄を歌い続けた母は
きっと「楽しい」何かがあったのだと思います。

穏やかな母の顔から私にそう伝わりました。

言語聴覚士さんとのやり取りもおそらく

「歌いましょう」
「はい」

という言葉のやり取りがあった後に
歌ったのではなくて

母の「はい」という言葉はないけど、
「はい」の代わりに歌ったので、
そこで母の気持ちが言語聴覚士さんに伝わったのだと思います。

3.まとめ

言葉を失ってしまう大脳皮質基底核変性症では、
言葉を使わないコミュニケーションを
前もって準備しておくといいとも聞きます。

例えば指差し。
(外部リンク:「ナーシングホーム幸せのスタッフブログ」


でも、私のこの難病に対する介護の知恵不足で
それを母にやってあげれなかったので、
もう今から何かをコミュニケーションの代わりに
することは母の現在の力ではできません。


そのため母から出てくる何かで

それは例えば
母の動きだったり
母の瞼の閉じ方だったり
母の手のちょっとした動きだったり
母の音だったり
時によって様々ですが、
母の気持ちを推し量ることにトライしています。

おそらく母の生き方や考え方など、
一番近くで見てきたからこそ、
想像しながら「こう思っているのかな」と
考えることができるからかもしれません。

母が大脳皮質基底核変性症の症状が進んで、
ベッドに寝ている時間が多くなってきたときに、
ベッド上で思い出すことが
楽しかった頃の記憶だったらいいなと思い、
母と「楽しい、うれしい、落ち着く」ことを探してやってきました。

症状が今より進んでいない頃に、
母と話をして決めたことです。

積極的に母と一緒に過ごす時間を増やし、
たとえ短い散歩であってもベッドで寝ているよりは
気が晴れることを意識してきました。

母が母らしく
少しでも安心した時間を最期まで過ごすことができるように
と私が母に協力したいと思ったからです。

よくわからない難病に罹り、
未来が不安だった母に対して
というよりか
母の未来が不安だった自分のためだったのかもしれません。

本当にそれが今は現実となり、
ベッドで天井を見ているだけの時間を
一日の大半過ごすような状態になり、
失語という大きな障害を抱え、
いよいよ母は母だけの世界にいるように
なってしまいました。

それでも、鼻唄を気持ちよさそうに歌っていた母を見たとき、
頭の中で楽しいことを思い出していたらいいなと思いました。




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