大脳皮質基底核変性症と嚥下障害|胃ろうでも誤嚥する?「口からのお楽しみ」と膿胸から学んだこと②
母が「膿胸」と診断されたとき、私の頭に真っ先に浮かんだのは、これまで続けてきた「週1回の口からのお楽しみ」の時間のことでした。
母が患う神経難病「大脳皮質基底核変性症」は、嚥下障害の進行によって誤嚥性肺炎を起こす可能性が高いと言われています。
母は栄養を胃ろうで摂取していますが、言語聴覚士の指導のもと、リハビリとして少量の食べ物を口から味わう時間を1年間続けてきました。
しかし膿胸と診断されたとき、私はふと不安になりました。
「もしかして、この「お楽しみ」の時間が誤嚥につながり、膿胸の原因になったのではないか」
そう思い、呼吸器の主治医と大脳皮質基底核変性症の診断医の両方に尋ねずにはいられませんでした。
しかしその答えは、意外なものでした。
「原因は特定できない。でも、むしろリハビリを続けてきたからこそ、この程度で済んでいると考える方が自然です」
今回は、母の膿胸の経験を通して、大脳皮質基底核変性症と誤嚥、そして「口から楽しむこと」の意味についてまとめてみたいと思います。
1.「口から食べること」を失うということ
口から物を食べることは、私たちにとって当たり前の行為です。
しかし、その機会を失うと、人はとても大きなものを失います。
それは単なる栄養摂取ではありません。
「生きる楽しみ」そのものです。
例えば、胃腸の検査や治療で絶食を経験したことがある人なら、きっとわかると思います。
数日にわたる絶食が終わり、やっと口にできたおもゆやおかゆの味。
それはどんな高級料理にも勝るものです。
「生」を感じる瞬間ではないでしょうか。
絶食という環境になって初めて、当たり前だったことがどれほど大きな価値を持っていたのかに気づくのです。
口の中にとろんと入る甘さ、やわらかさ。
「喉が、胃が、欲している」と感じる感覚。
そして胃に染み渡るおもゆは、栄養や味だけにとどまらず、
安心
懐かしさ
生きている実感
をもたらしてくれることがわかります。
一般的に、大脳皮質基底核変性症では嚥下障害が進行するため、誤嚥性肺炎を防ぐ目的で「口から食べることは危険」と言われることがあります。
確かに安全面を考えれば理解できる判断です。
しかし一方で、口から味わう機能を完全に失うことは、その人の生活から「楽しみ」を奪ってしまうことにもなります。
「食べること」は単なる栄養ではなく、生きる喜びそのものではないかと私は感じています。
だからこそ、寝たきりになった母にも、少しでも彩りのある時間を持ってほしいと思いました。
言語聴覚士の指導のもと、週に一度だけ、ほんの少し味わう「お楽しみの時間」を作ってきたのです。
2.胃ろうがあっても誤嚥は起こる――口の機能を守る意味
膿胸と診断されたとき、私は
「良かれと思ってやってきたことが、逆に母の病気を引き起こしたのではないか」
しかし主治医たちの言葉は、私の考えを大きく変えました。
「むしろリハビリの効果は大きいと思います。機能維持という意味もありますし、お年寄りは気持ちの面でも効果があるはずです」
この言葉を聞いて、私は大きくうなずきました。
母がお楽しみの時間に見せる表情は、言葉では言い表せないほど豊かなものです。
むしろ、言葉にしてしまうのがもったいないと感じるほどの表情を見せることがあります。
それは、昔好きだったものや、よく口にしていたものを味わったとき。
味や香りが体の中に広がり、もしかしたら記憶や思い出まで呼び起こしているのではないかと感じる瞬間です。
「恍惚感」という3文字では片付けたくない形容。
母からの表出が少なくなった今
目を瞑って味わう様子
「おー」という小さな声
眉間に皺を寄せる様子
もっとほしいと自分から吸いつきにいく様子
ゆっくり舌を動かす様子
ベッド上でほとんどの時間を過ごす母にとって、どんな時間のときに、少しでも気持ちが動くのか。
実は、胃ろうがあるからといって、誤嚥性肺炎にならないわけではありません。
誤嚥の原因は、食べ物だけではなく「唾液」もあるからです。
「胃ろうしていたら誤嚥性肺炎を起こしにくい」と私はこの病気を向き合ったときに、そう思いました。
今では簡単にネットやAIで調べることができるので、それが間違いであることはすぐわかるのですけど。
老化による「誤嚥」と、大脳皮質基底核変性症による「誤嚥」は、
仕組みが違うのですが、状況は同じです。
たとえ「胃ろう」しても、誤嚥を起こすのは間違いないのです。
「胃ろう」をして、口の機能を使わなくなると、
口腔が乾燥する
唾液の分泌が減る
細菌が増える
といった問題が起こります。
唾液には本来、殺菌作用や口の中を洗浄する働きがあります。
口を動かし、唾液の分泌を保つことは、むしろ感染予防につながる場合もあります。
口腔機能を維持するリハビリは重要だとされている理由のひとつですね。
そして、その先、誤嚥など「何か」が起きると、今まで持ち続けている機能を簡単に失いかねない、そういう状況下では「起こらないように注意をする」「起こさないように注意をする」という必要性が高まりますね。
さらに、「おいしいね」と感じる瞬間は、気持ちを明るくし、精神的な健康にもつながります。
喜び
安心感
生きがい
こうした感情は、目に見える治療ではありませんが、確かにその人の生活を支える力になります。
口から味わう時間は、単なるリハビリではなく、生きている意味を感じる時間でもあるのだと私は思います。
まとめ
母の介護を通して私は思います。
この病気の進行を止めることはできなくても、
ただ見守るだけではなく、
「できること」を積み重ねていくことはできる。
それが「生きる」ということなのだと。
ただただベッド上で寝て最期を待つのではなく、自分らしい時間を過ごすことで、「生きる」ことができたら。
それは母のように難病だから、というわけではなく、私たちと同じだと思います。
「生きる」ことに「難病だから」というわけは必要ないと思っています。
人間は平等に「最後のときまで生き抜く」のだと思っています。
母なりのピンピンコロリを目指す。
目指す権利もある。
生きるってそういうことかな。
なんて。
自分が年齢を重ねて、老いや先の不安を自分ごと化してくると、そんな風に感じます。
口から味わうほんの小さな時間でも、
それはきっと、その人の人生に彩りを与える時間になる。
「命を繋ぐ」というダイレクトな考え方よりは、「機能をできる限り持ち続けて生きることができる、たとえ難病だとしても平等に」ですね。
母の膿胸という出来事と、そこで聞いた主治医の言葉を通して、私は改めてそう感じました。
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